娘の「今日学校休みたい」

こんにちは。秋田アドラー心理学勉強会の坂本明子です。

先週の金曜日、中学3年になる娘が朝なかなか起きてこられず声をかけたところ「今日は休みたい」とのことで今学期初めての欠席をしました。

今までであれば「熱がある」とか「具合が悪い」というような明確な体調不良の症状があってから「風邪を引いたみたい」「休んだ方がいいかもね」と欠席を決めるのですが

珍しく体調のことは後出しになり「どうして休みたいの?」「ちょっと頭が痛いから」というので

これは「休みたい」という結論が先にあったのだろうなと思いました。

娘はこれまで、体調不良以外の理由で学校を休んだことはありません。

娘との毎日の会話の中で

・いつも、ものすごく学校に行きたい!と思っていないこと
・数週間前の修学旅行もそれほど楽しみではなかったこと
・だからといって勉強、部活、友だち関係すべてこれといって大きな問題があるわけではないこと

も把握していました。

そうはいっても、学校も修学旅行も行ったら行ったで楽しいところもあるし、3年生になってからは部活や委員会での3年生らしいエピソードも持ち帰っては嬉しそうに教えてくれます。

「行かなくちゃいけないから行っている」「休んだら授業が遅れるし、いろいろ面倒なこともある」娘なりに、学校へ行く・行かないことのメリット・デメリットを天秤にかけて、とりあえず「学校へ行った方が得策」と思っているようでした。

学校へ行く・行かないはアドラー心理学の考え方からすると「子どもの課題」ですので、わたしは娘にその決断を任せています。

休んだ日もわたしは普段通り仕事へ行き、帰って来てからも、「頭はどう?」と体調を尋ねただけで、あとは学校を休んだことについては触れていません。週末の過ごし方もいつも通りです。

そしてこれを書いている今は日曜日の夜。明日は月曜日です。

今、娘は宿題に取り組んでいます。明日の準備をしているようです。

様子を見に行ったところ、遅れた分の数学の授業の内容を取り返そうと教科書を読んだけどよくわからなかったので、youtubeで勉強していました。学習の仕方も自分で何とかしようとしています。これでいいと思っています。

娘は自分の判断で金曜日は欠席した。その結末の責任をとるため、つまり遅れた授業は自分なりに取り戻そうとしている。月曜日は学校へ行くと決めている。このあたりの判断をすべて自分でできるのは、アドラー心理学の目指す「自分のことを信じながら自分自身のことを決められる」ことに近いのでは?と少し安心しているところです。

親として、普段から娘との会話で気をつけていたことは

・話を否定したり、ジャッジしたり、必要以上に褒めたりせず、とにかく聞き役に徹すること
・課題は分離するが、わたしは仲間であるというメッセージを送り続けること
・あなたには解決する力があると信じること

「あー今日も学校行きたくないなぁ」と言われても

「そうなのね。わたしは仕事に行くけど、休みたかったら休んでいいと思うよ」

「今日〇〇ですっごい楽しかった」

「そうなんだ! 詳しく教えて!」(「やっぱり学校行って良かったね」とは言わない)

「数学の問題、思ったより解けてた」

「おー! 頑張ってたからね~ できるようになると嬉しいよね」(結果を褒めない。プロセスに注目していることを伝える)

子どもが「学校に行きたくない。今日休みたい」と言い出したときの反応よりも、毎日の会話のやりとりの中で、子どもとどんな人間関係を構築しているかの方がずっと大事。

アドラー心理学に子育てという特別なジャンルがあるのはなく、あくまでも親と子どもの人間関係なのだということをいつも感じています。

大切な親友に接するように、大事な個として尊重し、対等な関係を築く。

これからも心掛けていきたいと思っています。

勉強は子どもの課題

こんにちは。秋田アドラー心理学勉強会の坂本明子です。

子どもたちが夏休みに入りましたね。

わたしの中学2年の娘は、夏休みがくるのを心待ちにしていました。初日は早速近くの松林に出掛けて、今夢中になっている野鳥観察を楽しみました。といっても、お目当ての鳥はいなかったのですが、自然の中をてくてく歩くのは気持ちのいいものです。

終業式の日の夜、持ち帰ってきた通信簿を一緒に見ましたが、娘がこの評価をどんなふうに受け止めているかということに注目して、娘の気持ちに共感して話を聴きました。

「先生がちゃんと気づいてくれてたってことが嬉しいんだよね」

「この教科の評価は、悔しいの? どうしてそう思うの?」

「それについては自分でも納得ってことね」

評価の数字に一喜一憂せず。。。と言いたいところですが、数字はパッと見てわかりやすいので、わたしも思わず「お!」とか「あら?」という心の声が漏れてしまった瞬間がありました(苦笑) まだまだ未熟です。

娘の関心に関心をもって話に耳を傾け、どんな思いで勉強や部活や委員会活動をしているのかを知るのは、とても楽しい時間でした。

そんな中、娘から一つ「お願い」がありました。

「次の英検に挑戦したいので、英語の塾に行きたい」

アドラー心理学では勉強するのは子どもの課題であり、そこに親は踏み込まない、というのがあります。

「課題の分離」というものです。

ここだけを切り取ってみれば、単なる放任のような冷たい考え方のように感じるかもしれませんが、アドラー心理学を学んでいる人にとっては、この「課題の分離」がゴールでなく、むしろ「スタート」であることは、お分かりいただけるかと思います。

わたしは普段、娘に「勉強しなさい」とか「宿題終わったの?」など勉強に関することは一切言わない代わりに、親としての考えは中学校入学時から伝えてきました。

(以下はあくまでわたしの考えです。家庭の状況や勉強に対する価値観などで違って当然ですし、正解はありません)

・学校の授業を大事にしてほしいこと
・わからないところがあったら、先生や友だちに質問して解決してほしいこと
・もし、授業に全然ついていけなかったり、逆にもっと学びたいことがあったりしたら、いつでも塾などの方法を取れるから、その時は相談してほしいこと

勉強はあなたの課題だから基本的にはあなたに任せるけれど、もしあなたが必要ならば、いつでも協力しますよ、というメッセージです。

テストの結果が良かったら「頑張っていたから点数に出てきたんだね」「嬉しそうだね」芳しくなかったら「次も応援しているよ」「問題集とか必要があったら言ってね」などなど。

褒めず、叱らず、いつも丸ごとそのまま結果を受け入れて、とにかく、いつも上記のメッセージを発し続けてきました。

中学入学から1年と4か月。見守り続け、メッセージを発し続ける。アドラー心理学を実践するとはなんと気の長い話かと思われるかもしれませんが、これが我が家の実践の現実です。

娘は今のところ英語が比較的得意のようですが、授業だけではハイレベルの英検合格はなかなか難しいことを聞きつけたことと、1学期に学校で行われた英検のレベルチェックテストの結果と、通信簿の自分の英語に対する評定を見て、英検に挑戦してみたい、英検に合格することで最高評価がほしい、と思ったようです。自発的に言い出したことをわたしはとても嬉しく思っています。

英検合格、最高評価、そしてその先は?という話もしてみましたが、今のところは、それが目下の目標。今はそれでいいと思っています。やっていくうちに、新しい目標が娘の中に出てきたときは、また話をしてくれることと思います。これも「子どもの力を信じて待つ」ということ。こちらの待つ力が問われますね。

ちなみに苦手な教科は数学。わからないときは今のところ友達に聞いて解決しているから大丈夫、数学の塾には行きたくないとのことでした。これ以上は踏み込みません。

また塾の曜日や時間帯、送迎、夕ご飯の準備などについては、同居の母と話し合うことになりました。

過度の自己犠牲をすることなく、どこまで協力できるかについて落としどころを決める。

本当に日々、アドラーは実践だなぁと感じています。

一瞬で変われる特別な魔法のような勇気づけの言葉や100%うまくいくという実践法が存在しているわけではなく、アドラー心理学は日々の心がけの基本になる態度や考え方などの在り方の指針であり、そしてそれらは、日々継続して実践し、自分自身が結果を体験することで初めて身につくことばかりです。

「課題の分離」「共同の課題」「他者貢献」「自己犠牲しないこと」「信じて見守る」「共感」・・・本で読むだけ、言葉を覚えただけ、頭で理解しただけでは、残念ながら実践していることにはなりません。わたしも不完全ながら少しずつ前進しているような気分です。

そしてもう一つ付け加えたいのは、「いつからでも遅くない」ということ。子どもとはいえ、そこには「親と子の人間関係」があるだけ。「親子の問題」も「人間関係の問題」なのです。

日曜日の能代のアドラー心理学実践講座では、毎回受講者さんからの嬉しい実践報告があります。

前回、受講者さんが遠くにいる成人した娘さんとのやり取りについて悩んでいたところ、ちょうど「課題の分離」の学びがあり、娘さんの課題に踏み込んでいたのかもしれないと気づいてから、良好なやり取りが再開したという報告がありました。(詳細は書けません、ご了承ください)

次回は、わたしも娘の塾の話を紹介しようと思っています。

コロナ禍の折、いつも通りいかないところはあるでしょうけれど、どうぞみなさま、よい夏をお過ごしください。

感情とは?

みなさん、こんにちは。秋田アドラー心理学勉強会・勇気づけリーダーの坂本明子です。

陰性感情。

勇気づけELM講座・第4章で取り上げるものです。

感情には、良い悪いの区別なく「陽性感情」と「陰性感情」とがありますが、なんとも不快な陰性感情。

悲しみ、さびしさ、怒り、不安、悔しさ・・・・・

久々にわたしは、陰性感情に支配されそうになる出来事がありました。

アドラー心理学では、行動にも感情にも「目的」があると考えますが、そのときのわたしはその目的を考える余裕もなく、 陰性感情でいっぱいになってしまったのです。

もしアドラー心理学を学んでいなければ、これをきっかけに落ち込んだり、八つ当たりをしたかもしれません。もしかしたら、自己嫌悪に陥っていたかもしれませんし、この出来事の当人を責めていたかもしれません。

おそらくこれまでのわたしのパターンとしては、頭から離れない間は「イライラ」。時間が経てば、ある程度おさまるものの、何かのきっかけで思い出しては、また陰性感情に支配される・・・の繰り返しパターンだったかと思われます。

すんでのところで立ち止まって冷静になり、この陰性感情の目的は何だろう?わたしは一体、何のためにこの陰性感情を使っているんだろう?と、自分の心の内を見つめ直す時間をもつことができました。

答えはすぐに出てこなくても、もうそれだけで、事態をこれまでとは違った方向に切り替えられたことに、自分で自分を頼もしく感じました。

そして、わたしの陰性感情の目的をよくよく考えてみたところ・・・・

うっすら、ぼんやり、見えてきました。

見えてきたのは、自分のとある過去の出来事を「自分のせいじゃなかった」「自分は悪くなかった」と自分をかばいたくて、この感情を使っていたんじゃないかなぁ・・・・

そう思えた時、陰性感情はもうほとんどなくなっていました。

この先、また何かのきっかけで陰性感情を感じたとしても、またこうやって解決できるんじゃないかなぁと、今は肩ひじ張らずに少し気楽に構えていられます。

感情は、パートナー。

感情に振り回されたり、支配されたりするのではなく、自分の本当の思いは何か、それに気づかせてくれる大事な大事なパートナーです。

陽射しがいよいよ春めいてきましたね。

草木や花々の息吹を感じる季節がやってきます。

意識的に習慣を変えてみる

みなさん、こんにちは。秋田アドラー心理学勉強会・勇気づけリーダーの坂本明子です。

アドラー心理学は【どんな心理学よりも平易な言葉で書かれているが、どんな心理学よりも実践が難しい】とも言われています。

わたしたちには思考や行動のクセがあって、いざ変えようと思っても、ついつい以前のライフスタイル(知りたい方はぜひ講座へ♪)に戻ってしまいがちです。なぜか?理由は簡単、変えない方が楽だからです。

先日「ついつい以前と同じ行動をしそうだったけれど、意識的に行動を変えることができた」瞬間があったので紹介します。

職場で「研修に行きませんか?いい勉強になると思います。ただ、お休みの日だから無理にとは言えないけれど・・・」と声をかけられました。

以前のわたしなら

・お休みの日とは言え、これもわたしの仕事のうち。行った方がいいだろう。

・声がかかったということは、参加して仕事に活かすことを求められているのでは?

・今は予定が入っているわけではないから、断る理由がない。

・断って、やる気がないと思われたら嫌。

などと考えて、参加していたと思います。

その後に自分のプライベートな予定が入ったとしても、「一旦受けてしまったからには断れない」と、後ろ髪を引かれながらも研修に参加するタイプなのです。

おそらくそれで得られたものも、これまでたくさんあったことでしょう。「せっかく参加するのだから、しっかり学んでたくさん持ち帰ろう」という優等生根性を発揮するタイプでもあります。

「今回もやっぱり参加した方がいいかなぁ・・・」と悩み出して、「そういえば、わたしはコントローラー(ライフスタイルの1つの呼び名で自己抑制タイプ)だった!」と、はたと気がつきました。こんなときの行動に、ライフスタイルが如実に表れるものなのです。

こんなとき、というのは、人が社会の中で「どうやってこの問題を解決しようか」というときです。

わたしたちは、人と人とのつながりの中で生きています。

そのつながりの中で「このように行動した方がうまくいくだろう」と立ち回り、「ほら、やっぱりこれでうまくいった」とさらにその思いを強くし、思考や行動のクセ(ライフスタイル)を長い時間をかけて完成させ、そのライフスタイルをついつい使い続けているのです。

これまでのわたしは、「スキルアップのため」という目的だけでなく「やる気のある人」と思われたいというあざとい目的のため(笑)そこに ほんの少しの自己犠牲を払うことで職場の居場所を見つけ出してきたんだろうなと思いました。そうすることで上司との人間関係もより良好になるだろう、とも考えていたように思います。

わたしは、この研修をお断りしてみることにしました。

職場には「今回は欠席させてください」とだけ伝えました。理由を聞かれたら「お休みの日は家族と過ごすことにしています」と答えるつもりでしたが、理由は特に聞かれず、「あ、そう。はい、わかりました」と、あっさりした返答が返ってきて、やや拍子抜けした感じです。

あまり乗り気ではない研修への参加を断る・・・大げさかもしれませんが、わたしにとっては大きな変化であり収穫でした。

頼まれごとを断れなくて悩んでいたわけではありませんでしたが、いつもと違う行動を意識的にやってみたことで「決定権は自分にあること」や「課題を分けること」「人の行動や感情には目的があること」などのアドラー理論と今の自分を客観視して照らし合わせることができ、納得のいく形で理論を落とし込むことができました。

もちろん、「研修に参加しなかったことで情報を得られなかった責任を負うこと」も忘れていません。でも、もし今後困ったことがあったら、そのとき調べるなり人に質問するなりして、そのときできる範囲で解決すればいい、と思えました。「自分がなんとかしなくてはいけない」と気負うのではなく、「きっと職場で協力すれば解決できるはず」と、周りを信じることでこの問題を手放すことができました。

さらに「やる気のある人」かどうかを判断するのは、相手の課題であり、日々の仕事に真摯に取り組むことでわたしの最低限の仕事の課題は果たされているのではないかと気づいたことも、これからも仕事を続けていく上でとても有益でした。

日々の行動の一つ一つが、アドラー心理学の実践。勇気を出していつもと違う行動をしてみたら、いつもと違った思考をしている自分がいました。

人は変われる。性格は変えられる。ただし、その人が変わりたいと心から思っている限り。

さて、お雛様まであと1週間ほどでしょうか。

子どもの頃は、どうしてこの男の人は靴をもって泣いているだろう?と不思議でたまりませんでしたが、大人になり子どもと一緒にお雛様の絵本を読んでようやくその意味を知り、驚きました。

いろんな表情の人形は、人生の喜怒哀楽を表現しているのだそうです。

悲しみや苦しみも人それぞれあることでしょう。でもその出来事にどんな意味づけをするかは、その人によって違うものです。

人生に意味はない。あなたが人生に意味を与えるのだ。byアルフレッド・アドラー

褒める?褒めない?

みなさん、こんにちは。秋田アドラー心理学勉強会・勇気づけリーダーの坂本明子です。

中1の娘が学校で描いた水彩画が展示されると聞いて、能代から秋田市役所の展示ホールまで見に行ってきました。

娘の通っている中学校の中で選ばれたいくつかの作品が送られ、全県から集まった作品の中でも、娘の描いた絵は入賞したとのことで展示されているようです。

こんな出来事があったとき、みなさんはお子さんに何と声をかけますか?

すごい!

さすが!

すばらしい!

次は最優秀賞狙えるんじゃない!

あなたならできると思ってた!

子どもは褒めて伸ばそう!なんていう子育て論もよく聞く昨今ですが、アドラー心理学を学んで以来、わたしはこのような褒め言葉を使わなくなりました。

では、どんな言葉をかけるのか?

今回でいえば、どんな気持ちでそれを描いて、どんなこだわりや工夫があったのか、あなたの言葉でぜひ教えて!というように、娘の話す内容に完全に興味が移った、ということになるのかもしれません。結果に注目して(今回で言えば入賞という結果)そのこと自体を褒める、ということは、ほとんどなくなりました。

単純に娘が普段どんなことを思っているのか、何を大事に過ごしているのかを知ることの方がずっとずっと楽しく、そして、その方が娘との関係がとてもイイ感じ(軽い表現かもしれませんが、まさにこれ!)なのです。もしかしたら、わたしが発するのは、ちょっとした質問や相づちだけかもしれません。

この知らせをもって帰ってきたときも「えっ!?入賞?どんな気持ち?」とまずは聞きました。すると「嬉しいけど、ちょっと悔しいかな」と言ったので、「嬉しいのはわかるけど、どうして悔しいの?」と。こうやって考えると、結果だけに注目して褒めるって、とても一方的な関係です。

アドラー心理学でいう「共感」とは、相手の目で見て、相手の耳で聞いて、相手の心で感じること。

そして、「わたしはいつもあなたの仲間である」という「横から目線」

アドラー心理学を学ぶと、上記のすごい!さすが!・・・・は、かなりの「上から目線」に聞こえてくるから不思議なものです。

こうやって、子どもの話をじっくり聴くと、その子らしさがわかるポイントや、成長が感じられるポイントがたくさんあることに気づかされます。そしてその「あなたらしさ」がわたしは大好きなんだと、いつも伝えています。

結果ではなく、過程に注目、というより、もう過程にしか興味がないといってもいいくらい。

また話を聴いていくと、一番こだわったところは、なんとタイトルだという娘。

どんなタイトルなの?それってどういう意味?と、会話が続きますが、娘は決しておしゃべりなタイプではありません。普段の会話で、今学校でこんな絵を描いているんだ、というような話は一切ありませんでした。おしゃべりな子なら、こういうのちょくちょく話すのかなぁ?

思えば、保育園から小学校中学年のころまで、学校でのことはこちらから質問しても、ほとんど話さない子どもでした。自己完結型なんだろうなーと当時は思っていましたが、わたしが聴き上手ではなかったんだろうなと、今は反省しきりです。

また、美術の先生が「画用紙の白いところを無くすように、木の周りの白いところも塗ったほうがいい」とアドバイスをくれたようですが、娘は「はーい♡」と調子よく返事をして、忘れたふりをしてそのまま提出したとのこと( ̄▽ ̄)

白いところが自分のこだわりポイントだったから塗りたくなかった、でも先生とやりあうのは面倒だったと。もしもアドバイス通り塗ってたら吉と出ただろうか、それとも凶と出ただろうか・・・・ということに話題が及んだものの「そうまでしても、そこは塗りたくなかったとは、よっぽどのこだわりだったのね」と、あくまでも娘の気持ちに寄り添って最後まで話を聴きくことに徹します。先生のアドバイスに従わなかったことについての良し悪しのジャッジもしません

思春期といわれる年齢ですが、小学生の頃よりも会話が増えているような気がします。わたしの話の聴き方が変わったからかなぁと思いますが、どうでしょう。

子育てにおいて、子どもを褒めるのか、いや褒めてはいけないのか、それともメリハリをつけて褒めたり叱ったりした方がいいのか。正直な話、そこが問題ではないといつも感じます。

失敗したときだって、悔しいときだって、一般的に悪いといわれるような行為をしたときだって、つまり、どんなときだって、ただ寄り添って話を聴いてあげられる仲間。友達感覚という意味ではなく、「対等な関係」でいたいといつも思っています。

それがアドラー心理学の「勇気づけ」の基本となる心のあり方かなぁ。

ちなみに、そばでわたしと娘のやり取りを聞いていたわたしの母(娘にとっては祖母)は、手放しで「〇〇ちゃんはすごいねぇ、エライねぇ」と褒め言葉を連発しておりました(笑)

子どもにとっては、いろんな関係性を学べるいい機会なので、祖父母らからの褒め殺しは、アリ!とわたしは思っています(^_-)-☆

娘の絵はこちら。遠足で行った十二湖の青池。

こだわりの白いところは、木の幹のあたりのこのへんだとか、これは先生が撮影した写真を元にしたけど色はほとんど好きなように塗ったんだ、などの裏話を聴きながら鑑賞するのもとても楽しい時間でした。

そして気になるタイトルは「青池は青いらしい」

これでも青いっていうの?とちょっとケンカ腰にも聞こえないこともないですが、わたしはこのシュールなタイトル、うん、娘らしくて大好きです!

明日から新学期が始まりますね。学校が、すべての子どもたちが伸び伸び自分らしさを発揮しながら、仲間と成長しあえる場所であることを願います。

朝、子どもを起こすこと

みなさん、こんにちは。秋田アドラー心理学勉強会・勇気づけリーダーの坂本明子です。

4月から娘が中学生になりました。

中学生になるにあたり、朝どうやって起きるかについて話し合いをしました。

娘は、ぎりぎりになったらママが起こしてくれると、どこかで甘えている・・・甘えているというよりは、アドラー心理学的な言い方をしてみると、

ぎりぎりになると私が起こしていたことから、「本当の本当のぎりぎりにはママは起こしてくれる」と学んでいるわけですね。

娘に言いました。

みんなの朝ご飯を作ったり、ママ自身の身支度をしながら、あなたを起こしに何度もあなたの部屋に行かなくてはいけなくて、ママは朝の時間がとても忙しいです。

自分で目覚まし時計をかけて起きてもらいたいのだけど、どうかしら?

というわけで、この1カ月半、わたしは一度も娘を起こしませんでした。

今日こそ遅刻をするんじゃないか?と毎朝ドキドキでしたが、一度しっかり遅刻(おかしな表現ですが)をしてくれれば

先生に叱られるなり、朝の放送委員会の仕事に穴を開けるなりの痛い思いをしたら、「ママは起こしてくれない」と学んでくれるかなぁとも思っていたところ

自分で起きてきたけれども、放送委員会の仕事には、どうやら間に合いそうにない時間になってしまったことがありました。

「自分で起きたけど、間に合わないから車で送って行ってもらいたい」という申し出があったので、その日は夫が送って行ってくれましたが

自分で起きたし、自分から助け舟を求めてきたことだから、今回はいいことにしようかな、とわたしもこの件を振り返っていました。

そのうちに、たくさん宿題が出てきたり、部活動が忙しくなったりして、どんどん寝る時間が遅くなっていき、

娘は目覚まし時計の時刻をわざと10分早めたり、時計を布団から少し離れた場所に置いたりする工夫をしていますが、朝は相変わらず眠そうな上、バタバタしていて、とっても大変そうです。

そこで、わたしの方から、夜は音楽を聴いたりテレビをみたり、ゆっくり疲れをとる時間にして、朝早く起きてすっきりした頭で宿題をする、っていう選択肢もあるけど?と提案してみたところ

そのテがあったか!と、早々とお風呂に入って、好きな音楽を聴きながら布団に入り、朝は4時に起きて、ちゃちゃっと宿題を片付けているようです。

「めざましテレビをはじめから見ることができるんだよ!」とテレビ好きの娘にとってはそれも嬉しいことのようです。

その生活が今朝で連続3日目に。

来週はどうなるかわかりませんし、まだまだいろいろ試してみることになるのでしょうけれども、あくまでも親からは「提案」をするのみ。「決定」するのは娘本人。

そして、できていることに「注目」&「勇気づけ」

「早起き生活、調子が良さそうだね」というと「なんかね、早起きのおかげかわからないけど、今日の数学はさえてた!」「そうなんだ!さえてるって、いい感じだねー」というのは、昨日の晩御飯のときの会話です。

帰宅は19時過ぎ。それからご飯を食べて、お風呂に入って、そしてすぐ寝てしまうので、ゆっくり話せる時間はほとんどご飯の時だけ・・・

今こそ、アドラー流の「聴き上手」のコツを発揮!

小学生から中学生へと環境が変わったこともあり、学校のことをたくさん話してくれるようになったのは、聴く側のマインドが変わったからだろうなぁと、思っています。

明日の能代のアドラーゆるカフェでは、第2章の「聴き上手」の実践をみなさんに報告してもらうのが楽しみです。